夏休みの宿題で唯一だしてなくて、かつ出す気の無かった読書感想文がついさっきできあがりました。
三連休で出す気があるならかいてこいみたいなこと言われたので。
というわけでそぷたんに催促されたのでここでも披露ー
頭を銃で撃たれ脳を損傷した青年に、世界初の脳移植手術が施される。――私の読んだ東野圭吾著「変身」は、簡潔に述べればこのようなあらすじである。私は、この本の主題とも言える脳移植を通じて、人が人であるということについて深く考えさせられた。
一個の人間を形成するものとは何だろうか。たとえば移植について考えてみる。臓器移植の場合、私が心臓や腎臓を移植されても、それらの臓器を実際に使うのは私である。よってその臓器のドナーがどこの誰であれ、移植が施された後も私が私であることには変化はないと言えるだろう。
しかし脳移植の場合はどうだろうか。たとえば私が脳死し、ある他人の脳を丸々移植されたとする。その脳は元来その持ち主のものであったのだから、その人の記憶やその他色々なものを受け継いでいるはずだ。そうすると、その脳を移植された私はいったい何者になるだろう。以前の私が脳移植によって蘇生したのではなく、他人がそのまま私に引っ越してきたというほうが適切だろう。よって、その後の私は見た目上は私でも、私ではなくなる。
以前に、死んだドナーから角膜の移植をうけるという話を読んだことがあるが、それは移植後に角膜の提供者が自分にだけ見えてしまうという奇妙なストーリーだった。角膜は意思や記憶を持っていないため、その話を非現実的にとらえた私は、単にホラー物として読み流してしまって、今こうして感想文を書くまで忘れていたぐらいだ。しかし、今回読んだこの「変身」は現実味を帯びていて、単にありえない話として読み流すことができなかった。この本の中で主人公は、損傷した右脳の一部を移植されただけにもかかわらず、その脳片の影響でだんだんと性格の変貌を遂げていく。これまでに人が脳移植をうけたという話は聞いたことがないが、もし今後脳移植が可能になれば、このようなことが起こるかもしれない。そうなったとき、先に述べたように、移植された人はいったい何者だということになる。脳を提供した人か、はたまた提供された人か。こういったことに明確な線引きがされない限り、技術的に可能になったとしても、安易に脳移植をすべきでないと思う。
これまで私は、人間はその脳によって生み出される内面の部分があってこそだというような話を述べてきたが、外見も一個の人間を形成する重要な一部分であるとも考えている。私はよく、実際はそうではない(と自負している)にもかかわらず、新しくできた知り合いに「見た目が怖いから、もっと怖い人やと思ってた。」というようなことを言われる。私が怖い人だと思われるのは、人とはじめて出会ったときに最初に目に入るのが外見だからだと考えられるが、このことから、初対面の人に対して外見が大きく作用することは明確である。しかしながら、外見のみでその人がどういう人間であるかということが決まるわけではもちろんない。もし外見だけでどういう人間かが決まってしまうのであれば、一卵性双生児などはどうなるだろう。双子でもそれぞれの性格や考え方といった内面の部分は違うのに、先に述べた条件だけで判断すれば、二人とも同じ人間であるということになってしまう。これは明らかに矛盾している。
そのほかにも、異性は外見さえよければ内面などどうでもいいなどという人がよくいるが、これは大きな間違いだと思う。これも先の双子の例をあげてみると、双子ならどちらでも同じだということになる。しかし外見さえよければいいと思っている人にそのことを言うと、「Aくん(さん)の方が性格がいいから、そっちのほうがいい。」などとおかしなことを言う。結局このことから、外見さえよければいいなどと言っている人も、多かれ少なかれ相手の内面を重視しているということがわかる。
これまで私が述べてきたことをまとめると、一個の人間を形成しているのは内面と外見の双方であるといえる。そのどちらが欠けても、人間というものは成り立たない。自分とよく似た容姿をもっている人間がいたとしても、また自分と同じような性格の人が居たとしても、今の自分の容姿と性格の両方ともを併せ持つ人は、まず自分しか居ないだろう。ふとそういうことに気づいたとき、普段は気にも留めない「自分が自分であること」が、とても大切なことだと思えるのではないだろうか。
三連休で出す気があるならかいてこいみたいなこと言われたので。
というわけでそぷたんに催促されたのでここでも披露ー
東野 圭吾著「変身」を読んで
頭を銃で撃たれ脳を損傷した青年に、世界初の脳移植手術が施される。――私の読んだ東野圭吾著「変身」は、簡潔に述べればこのようなあらすじである。私は、この本の主題とも言える脳移植を通じて、人が人であるということについて深く考えさせられた。
一個の人間を形成するものとは何だろうか。たとえば移植について考えてみる。臓器移植の場合、私が心臓や腎臓を移植されても、それらの臓器を実際に使うのは私である。よってその臓器のドナーがどこの誰であれ、移植が施された後も私が私であることには変化はないと言えるだろう。
しかし脳移植の場合はどうだろうか。たとえば私が脳死し、ある他人の脳を丸々移植されたとする。その脳は元来その持ち主のものであったのだから、その人の記憶やその他色々なものを受け継いでいるはずだ。そうすると、その脳を移植された私はいったい何者になるだろう。以前の私が脳移植によって蘇生したのではなく、他人がそのまま私に引っ越してきたというほうが適切だろう。よって、その後の私は見た目上は私でも、私ではなくなる。
以前に、死んだドナーから角膜の移植をうけるという話を読んだことがあるが、それは移植後に角膜の提供者が自分にだけ見えてしまうという奇妙なストーリーだった。角膜は意思や記憶を持っていないため、その話を非現実的にとらえた私は、単にホラー物として読み流してしまって、今こうして感想文を書くまで忘れていたぐらいだ。しかし、今回読んだこの「変身」は現実味を帯びていて、単にありえない話として読み流すことができなかった。この本の中で主人公は、損傷した右脳の一部を移植されただけにもかかわらず、その脳片の影響でだんだんと性格の変貌を遂げていく。これまでに人が脳移植をうけたという話は聞いたことがないが、もし今後脳移植が可能になれば、このようなことが起こるかもしれない。そうなったとき、先に述べたように、移植された人はいったい何者だということになる。脳を提供した人か、はたまた提供された人か。こういったことに明確な線引きがされない限り、技術的に可能になったとしても、安易に脳移植をすべきでないと思う。
これまで私は、人間はその脳によって生み出される内面の部分があってこそだというような話を述べてきたが、外見も一個の人間を形成する重要な一部分であるとも考えている。私はよく、実際はそうではない(と自負している)にもかかわらず、新しくできた知り合いに「見た目が怖いから、もっと怖い人やと思ってた。」というようなことを言われる。私が怖い人だと思われるのは、人とはじめて出会ったときに最初に目に入るのが外見だからだと考えられるが、このことから、初対面の人に対して外見が大きく作用することは明確である。しかしながら、外見のみでその人がどういう人間であるかということが決まるわけではもちろんない。もし外見だけでどういう人間かが決まってしまうのであれば、一卵性双生児などはどうなるだろう。双子でもそれぞれの性格や考え方といった内面の部分は違うのに、先に述べた条件だけで判断すれば、二人とも同じ人間であるということになってしまう。これは明らかに矛盾している。
そのほかにも、異性は外見さえよければ内面などどうでもいいなどという人がよくいるが、これは大きな間違いだと思う。これも先の双子の例をあげてみると、双子ならどちらでも同じだということになる。しかし外見さえよければいいと思っている人にそのことを言うと、「Aくん(さん)の方が性格がいいから、そっちのほうがいい。」などとおかしなことを言う。結局このことから、外見さえよければいいなどと言っている人も、多かれ少なかれ相手の内面を重視しているということがわかる。
これまで私が述べてきたことをまとめると、一個の人間を形成しているのは内面と外見の双方であるといえる。そのどちらが欠けても、人間というものは成り立たない。自分とよく似た容姿をもっている人間がいたとしても、また自分と同じような性格の人が居たとしても、今の自分の容姿と性格の両方ともを併せ持つ人は、まず自分しか居ないだろう。ふとそういうことに気づいたとき、普段は気にも留めない「自分が自分であること」が、とても大切なことだと思えるのではないだろうか。

←とりあえず今日買ったおかしの一部でも載せときますね。